貴方はクロロ=ルシルフルと付き合っていた。 だが貴方は自分を一途に想ってくれる彼に恐怖を感じ逃げた。 そこから何年か経ったある日、偶然彼と暗い闇の路地で再会を果たす。 それが本当に偶然なのか、計画された偽りの偶然なのかは分からない。
物語を始める...
暗い路地。雨上がりの匂いがアスファルトに残る、人気のない夜の道。私は急ぎ足で、コツコツとヒールの音を響かせていた。本当はこんな時間にこんな場所を通るべきじゃない。分かっている。それでも、少しでも早く帰りたくて、近道を選んでしまった。
ふと、足を止める。違和感。立ちこめる空気が、一瞬で変わった。背筋を冷たいものが這う。振り返る前に、あの声が耳朶を打った。
「──やっと見つけた」
低く、甘やかな声。何年もの間、夢に見た声。いや、悪夢として刻まれた声。ゆっくりと振り返る。薄闇の中に浮かび上がる、見覚えのあるシルエット。黒いコート。整いすぎた美貌。そして、獲物を見つけた獣のような、危険な笑み。
クロロ=ルシルフル。かつて私が愛し、そして逃げ出した男。
「ひっ……」喉の奥から引きつった音が漏れる。足がすくむ。逃げ出したいのに、体が動かない。
彼はゆっくりと歩み寄る。全てを分かりきったような、余裕の表情で。路地の暗がりが、彼の陰影をより一層深く見せる。
「会いたかったよ、○○」
そう囁くと同時に、私はふわりと浮いた。彼の腕に、いとも簡単に抱き上げられていたのだ。お姫様抱っこ。かつては甘いと思ったその仕草が、今はただただ恐ろしい。
「降ろして……!」必死に抵抗する私に、彼は微笑んだまま言葉を返さない。ただ耳元に唇を寄せて、そっと囁く。
「もう、逃がさないから」
その一言で、全身の血の気が引いた。
「……どうして今さら」諦めにも似た感情で問いかける
私の問いかけに、クロロは一瞬だけ瞳を伏せた。路地の薄明かりが彼の長い睫毛に影を落とす。それから、ゆっくりと私を見つめ直す。その瞳には、相変わらず読み解けない深い闇がある。
「今さら、か。確かに、ずいぶんと時間が経ったな」
彼の足音だけが、静かな路地に響く。アジトに向かっているのだろう。腕の中の私を落とさないように、しっかりと抱きしめながら。
「でもな、○○。俺にとって、お前を追うことに『時が遅すぎる』なんてことはないんだよ」
彼はそう言って、不敵な笑みを浮かべた。その笑顔の奥に、何年もの間燻り続けていた執着の炎を見た気がした。
「逃げたお前を、また捕まえた。ただそれだけだ」
私が何も言えずにいると、クロロはさらに言葉を続けた。
「それにしても──よくもまあ、長い間逃げ続けたものだ」
感心したような、嘲るような口調。彼の指が、私の髪をそっと梳く。優しい仕草なのに、その指先には確かな力が込められていて、決して離してもらえないことを悟らせる。
「どこにいたんだ?」
囁くような問い。答えなければ、どうなるのだろう。昔を思い出す。彼の逆鱗に触れた者の末路を、私は何度も見てきた。
「答えられないか。まあいい。これからゆっくりと、思い出させてもらうからな」
そう言って、彼は足を速めた。見覚えのある建物の影が、闇の中に浮かび上がる。かつて私がいた場所。そして、二度と戻りたくないと思った場所。
懐かしい感覚が蘇る。彼の肌の温もり、香水の匂い、歩くリズム。全てが、数年前に別れたあの日と変わらない。まるで時間だけが私だけを置き去りにしたかのようで、滑稽で、そして恐ろしかった。
クロロの足が止まる。見上げると、大きな鉄の扉。無骨で、無機質で、閉じ込められることを拒否できない象徴のような門。彼がポケットから鍵を取り出す。金属が擦れる乾いた音が、夜闇にやけに響いた。
「着いたぞ、○○。お前の──俺たちの新しい部屋だ」
彼の声には、待ち望んだものを手に入れた人間の悦びが滲んでいた。鍵が回り、重い扉が音を立てて開く。中から漂う微かな埃と、誰かの生活の気配。
私は抵抗する気力もなく、彼の胸に頬を寄せたまま、再び動き出す体に身を委ねる。階段を上がる度、規則的な足音が壁に反射して耳に届く。一階、二階、そして──三階。
廊下の突き当たり。そこだけ異様に豪奢な扉が立ちはだかる。金の装飾、アンティーク調の取っ手。クロロがその扉を押し開けると、中から溢れ出る柔らかな灯り。
「──どうだ?」
彼が私をそっと床に下ろす。目の前に広がる光景に、思わず息を呑む。天井まで届く本棚、ふかふかの絨毯、大きな天蓋付きのベッド。まるで、おとぎ話に登場するお姫様のための部屋だ。
でも、違う。窓には頑丈な格子がはめられている。部屋の鍵は内側からはかからない作りだ。美しい檻──そう認識した瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
こ、ここで暮らすの、?ときく
震える声で尋ねると、クロロは優雅に私の髪をひと房手に取り、口元に寄せた。唇が触れる感触に、鳥肌が立つ。
「そうだ。ここがお前の新しい部屋だ。全て、お前のために用意した」
彼は満足げに部屋を見渡す。壁紙の柄、家具の配置、ベッドのシーツの色までもが、かつて私が雑誌の切り抜きで見せた理想の部屋と寸分違わなかった。あの頃、何気なく話した夢の話を、彼は完璧に覚えていたのだ。
「気に入ったか?」
問いかけながらも、彼の目は答えなど必要としていない。もう、決まってしまっているのだ。
「でも、仕事も……友達も……」
「すべて処置済みだ」
淡々とした言葉に、背筋が凍る。彼は仕事場の電話番号すら知っているはずがないのに。いや、調べたのだ。私が逃げたこの何年かの間に、彼は私の全てを洗い出したに違いない。
「お前には、ここで大人しくしていてもらう。外のことは心配するな」
クロロは優しく微笑む。けれどその瞳は、一歩も逃がさないという確固たる意志で煌めいていた。
クロロは私の返事を待たずに、ゆっくりと部屋の中を歩き始めた。彼の指が本棚の背表紙を撫で、ソファの布地を確かめるように触れる。全てが計算された動作だった。
「何か欲しいものがあれば言え。本も、服も、食事も──何でも用意させる」
振り返った彼の顔は、どこか優しかった。けれどその優しさが逆に怖い。この豪華な檻の中で、すべてを与えられ、すべてを奪われる。自由以外の全てを。
「逃げようとは思うなよ。監視はつけてある。窓にも格子がある。万が一、外に出られたとしても──」
彼は言葉を切って、妖しく笑った。
「今度はお前の大切な人たちに何が起きるか、分かっているな?」
それは明確な脅迫だった。私は彼の言っていることが現実味を帯びていることを、痛いほど知っている。彼は幻影旅団の団長。命を奪うことに、一片の躊躇もない男だ。
「……分かった」
掠れた声でそう答えると、クロロは満足げに頷いた。
「賢明だ。じゃあな、○○。また夜に来る」
彼が部屋を出て行く。重厚な扉が閉まる音。かちゃり、と鍵がかかる金属音。一人きりになった部屋で、私はその場に崩れ落ちた。
ベッドに横たわり、今後のことを考える
重い扉が閉まってから、どれだけの時間が経っただろう。私はふらふらと立ち上がり、天蓋付きのベッドに歩み寄る。触れたシーツは上等な素材で、ふわりと甘い香りがした。まるで高級ホテルのようだ。けれどここは私を閉じ込める檻だ。
私はそのままベッドに横たわる。天井を見上げれば、柔らかな照明が温かな光を落としている。この部屋の主が、どれほど私を──いや、私という“所有物”に執着しているのかが痛いほど伝わってくる。
考える。これからのことを。この何年か、私は必死に逃げてきた。名前を変え、住所を変え、仕事を転々として。それでも彼の蜘蛛の巣からは逃げ切れなかったのだ。
クロロは変わっていなかった。いや、もしかしたら前よりも危険な雰囲気を纏っている。かつて彼の傍にいた時、私は彼の一途な想いに息苦しさを覚えて逃げ出した。独占欲、支配欲、執着心──愛情の裏側にある暗い部分を感じ取ってしまったのだ。
天蓋のレースが揺れる。窓の外からは微かに街の灯りが見えるのに、その灯りは指をくぐらせた砂のように掴めない。
どうすればここから出られるのだろう。抵抗すれば、彼が言ったように大切な人たちに危害が及ぶ。かといって、おとなしくここにいるわけにもいかない。
考えれば考えるほど、答えは闇の中に消えていく。ただ一つ確かなのは──私はもう一度、この男の掌の上で踊らされているということだ。
クロロが戻ってくるのを待ち、冷静に話し合おうと試みる
どれだけ待っただろう。嫌な時間感覚の中で、私はベッドの端に腰掛けてじっと扉を見つめていた。いつ来てもおかしくない。そう思って身構えていると、予想通り廊下から足音が聞こえてきた。鍵が開く音。重厚な扉が押し開けられる。
「──起きていたのか」
クロロが入ってくる。手にはトレイに乗った紅茶と軽食。まるで優しい恋人を装って。私は彼の顔をまっすぐ見つめながら、用意していた言葉を口にした。
「クロロ、話をしない?」
彼は一瞬動きを止め、それから口元だけで笑った。面白いものを見つけたような、危険な笑みだった。
「話だと?何を」
彼はトレイをテーブルに置き、向かいのソファに優雅に腰掛ける。脚を組み、指を組んで、全てを掌握したように私を見る。私は深呼吸して、震える声を必死に抑えた。
「お願い、ここから出してほしい。もう逃げない。ちゃんと会うことも話すこともするから」
嘘じゃない。少なくとも、どこへも逃げられないことを理解した。ならば、正面から話し合うしか道はないと思ったのだ。
クロロはしばらく沈黙し、私の顔をじっと見つめていた。何を考えているのか、その漆黒の瞳からは何も読み取れない。
「なぜそこまで執着するの?」と、彼の過去や心情に触れる質問をする
私の質問に、クロロの指が微かに止まった。彼は組んでいた指を解き、ゆっくりと立ち上がる。トレイの上の紅茶が揺れて、琥珀色の水面が波立った。彼が歩み寄り、私のすぐ隣、ベッドの縁に腰を下ろす。距離が近い。逃げ場のない空間で、彼の存在感が部屋全体を支配する。
「執着、か」
彼は窓の外を見るような、遠くを見つめる目をした。それから、ゆっくりと私に向き直る。瞳に宿るのは、いつもの余裕だけでなく、かすかな熱。
「お前は、俺にとって初めてだったんだ」
その言葉に、私は思わず息を呑む。初めて?旅団の団長である彼にとって、私が?
「初めて俺の心を揺さぶった人間。初めて逃げられた人間。初めて──欲しいと、心から思った人間だ」
彼の手が伸びて、私の頬に触れる。冷たい指先。でもその感触には、確かな熱が宿っていた。
「お前がくれたものは、何よりも──俺の空虚を埋めた。それを奪われて、俺は初めて気づいたんだ。自分がいかに無防備だったかを」
クロロの声が、わずかに低くなる。
「だから俺は、お前を手放さない。手放してはならない。お前は俺の──そう、言うなれば『コレクション』の中でも、最も価値ある一品だ」
彼の言葉の端々に、暗い情熱が滲んでいた。それが、彼なりの告白なのだと気づくまでに、時間は要らなかった。
私そんなに愛してくれても返すものが…と少し困ったように
私がそう呟くと、クロロは一瞬だけ目を見開き、それから、あまりにも優しい笑みを浮かべた。その笑顔が逆に怖い。彼の手が私の頬から顎へと滑り、そっと上向かせる。
「返すものなんて、何もいらない。お前がそこにいるだけでいい」
あまりにも純度の高い言葉。でもその奥に、途方もない独占欲が潜んでいることを、私は知っている。彼は続ける。
「それに──返すものが欲しいなら、お前自身がそう思ってくれていること自体が、もう十分な報酬だ」
細められた瞳。そこには確かな色気と、そして、危険な甘さが混ざっていた。彼の指が、私の唇の端をそっと撫でる。
「それでも何かしたいなら──」
声が低くなる。耳元に寄せられる吐息。
「──お前がここにいる間、ずっと俺を見ていてくれ。それだけでいい」
その言葉には、逃げ出した年月への寂しさと、再び手に入れた悦びと、そしてもう二度と離さないという決意が込められていた。私の心臓が、早鐘を打つ。
クロロの言葉が、部屋の空気に溶けて消える。彼の指がまだ私の頬に触れている。体温のない指先なのに、触れられている部分が熱を持ったように感じられる。
何も言えずにいると、彼が口を開いた。
「お前も、疲れただろう。今日はもう休め」
そう言って立ち上がる。トレイを手に取ると、そのまま扉へ向かう。足音が止まり、彼が振り返る。
「逃げようとは思うなよ。もう二度と、目を離さないからな」
暗に告げられて、背筋が冷える。彼の影が廊下に伸び、扉が閉まる。重い鍵の音が部屋に響いた。
一人きり。深い沈黙の中で、私はただぼんやりと彼の消えた扉を見つめていた。
