
叶攻/善受。ブロマンス寄り。
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洞窟の奥は、昼なお暗く湿った空気が満ちている。水滴がぽたりと落ちる音がする。そんな静寂を破って、陽気な声が響き渡った。
「やあ、叶空クン!今日も元気かな?」
音の主――殊玉善治は、分厚い丸眼鏡の奥の茜色の瞳を細めて、スッと空中に浮かびながら洞窟の入口から入ってきた。彼の腕には、見るからに古びた琵琶が抱えられている。
善治は、入口でふわりと静止し、恭しく一礼した。
「今日はね、新しい曲を思いついたんだ。叶空クンに聴かせたくてねえ」
そう言って、彼は微笑む。慈愛に満ちたその笑顔は、洞窟の翳りすらも柔らかく照らすようだった。
洞窟の壁にもたれかかっていた叶空は、来訪者に気づくと、怠そうに一瞥をくれた。そして、壁に刻まれた文字――「5月某日 3点」――を指でなぞりながら、ふん、とそっぽを向いた。
「……で、今日は何点取れるかな?前回は三流だったからね。アンダスタンディング、頑張らないと」
善治は琵琶の棹を撫でながら、何やら呑気に呟く。
叶空は無言で、壁に向かって「4点」と新しい点数の下書きを始めた。
「おや、もう答えが出ているのかい?酷いなあ!一曲も聴いてないのに!」
善治は芝居がかった口調で大げさに嘆いてみせるが、その目は楽しげに細められている。
彼は叶空の隣までふわりと移動すると、琵琶を構えた。
「さあ、いい曲なんだ。聴いてくれたまえ」
そうして、彼が弦を爪弾く。
──ビヨヨヨヨヨン!
独特の、形容しがたい音が洞窟内にこだました。
叶空はビクリと肩を震わせ、顔をしかめると、両耳を手で覆った。
「……うるさい」
昼間の叶空は、言葉を発しない。が、その表情と仕草が雄弁に語っていた。
善治は全く動じず、いやむしろ真剣な表情で琵琶と対話するように、もう一度爪弾く。
「おや?調子が悪いのかな?少し張りが緩んでいるようだ」
彼は首をかしげ、琵琶の弦を指で引っ張って確かめる。
「まあ、こういう時もある。ねえ、叶空クン。キミはどう思う?藝術とは、不完全さの中に美を見出すものだと思うかい?」
善治は突然、哲学的な問いを投げかける。その瞳は、真剣そのものだ。
叶空は一瞬、耳を覆っていた手をどけて、善治をじっと見つめた。その表情は、何を考えているのか掴みにくい。やがて、彼は手近な小石を拾うと、床の砂に文字を書き始めた。
『わかんない おまえがうるさいのはわかる』
それを見て、善治は突然、目を丸くした。
「ハッ!なんてこった!まさか、キミの方が一枚上手だったとは!」
善治は素直に笑い、頭を掻いた。
「そうだねえ。ボクの演奏はうるさいかもしれない。でもね、叶空クン」
彼は優しい声で言う。
「人はね、うるさいと感じるものにこそ、心を動かされるものなのだよ」
そう言って、彼は再び、優しく弦を爪弾いた。今度は、少しだけ不器用な、それでいてどこか温かみのある、そんな音だった。
善治の手から琵琶を奪い取ってみる
善治が不器用な音を奏で始めた瞬間、叶空は素早く動いた。彼はひらりと身を翻すと、善治の手から琵琶を奪い取った。その動作は無造作で、まるで花を摘むように軽やかだった。
「おや?!」
善治が驚きの声を上げる間もなく、叶空は奪った琵琶を抱えて洞窟の奥へ駆け出す。そして、彼は琵琶を高々と掲げると、そのまま石壁に叩きつけようとした。
「ちょ、ちょっと待ってくれたまえ!叶空クン!」
善治が慌てて後を追う。しかし、叶空はピタリと動きを止め、振り返って善治を見た。その瞳には、悪戯っぽい光が揺れている。
彼はゆっくりと琵琶を下ろし、何の前触れもなく、そのまま抱きしめた。まるで大切なものを慈しむように、優しく。
善治は息を呑んだ。彼の琵琶が、叶空の腕の中にある。その光景が、何故だかひどく特別なものに思えた。
「…葉っぱ、一枚くらい、あげてもいいけど」
叶空はそう言っているように見えた。彼は琵琶の棹に飾られた造花の葉っぱに指を触れ、それからにこりと微笑んだ。
善治はしばらく呆然としていたが、やがて口元を綻ばせた。
「ふふ…なるほどちぎる秋なすび。キミは、ボクのビワーが欲しかったのかい?」
そのまま琵琶を抱えて洞窟の奥へ消えていく
叶空は琵琶を抱えたまま、ひらりと身を翻すと、洞窟の奥へと歩き出した。足音はほとんどせず、まるで闇に溶け込むように、彼の白菫色の髪が暗がりに消えていく。
「あ、ああっ!叶空クン!待ちたまえ!」
善治が慌てて後を追うが、幽霊である彼の足は地面をすり抜けてしまう。焦った善治は浮遊しようとするが、普段はあまり使わない実体化に集中しなければならず、咄嗟には追いつけない。
「困ったなあ…まさか盗られるとは思わなかったよ」
善治は呟きながらも、その口調には怒りはなく、むしろ呆れたような、そしてどこか嬉しそうな響きがあった。彼は眼鏡を押し上げると、ゆっくりと洞窟の奥へ向かって歩き始めた。
「仕方ない。ボクのビワーがキミに何か伝えたいのかもしれないね」
善治の声が洞窟にこだまする。奥からは琵琶の弦がかすかに鳴る音と、叶空の楽しげな気配が漂ってくる。
洞窟の奥はさらに暗く、水滴の音だけが静かに響いていた。
善治を待ち伏せして驚かせる
洞窟の奥へ消えてから十分ほどが経った。善治が慎重に暗がりを進んでいくと、角を曲がった先で突然——
「わあっ!」
叶空が横から飛び出してきた。彼は琵琶を背中に隠しながら、両手を広げて善治の前に立ちはだかる。その顔にはいたずらっ子のような笑みが浮かんでいる。
「ヒィッ!?」
善治は情けなく悲鳴を上げ、よろめいて壁にぶつかった。丸眼鏡がずり落ちる。
「な、何をするんだい叶空クン!心臓が止まるかと思ったじゃないか!——いや、もう止まってるけどね!」
彼は胸を押さえながら大げさに息をつく。しかし、そんな善治の様子を見て叶空はますます楽しそうだ。彼はくすくすと声を立てずに笑いながら、背中に隠した琵琶をそっと抱え直した。
善治は眼鏡を直しながら、叶空の表情をじっと見つめた。楽しそうに笑うその姿が、なぜだかとても眩しく感じられる。
「……全く、キミという人は。でも、こんなふうに驚かせるなんて、よっぽどボクのビワーが気に入ったのかな?」
善治の問いかけに、叶空は首をかしげて——そして、突然抱えていた琵琶を差し出した。
