
ホタルビ3人の交流。
ホタルビには幽霊が出るという噂がある。
ホタルビ寮の廊下を、昴流と伯玖が並んで歩いていた。窓の外はしとしとと雨が降り続き、濡れた庭木が闇に沈んでいる。
「そういや、寮の噂話ってやつよ。ホタルビには幽霊が出るってな」
伯玖が何気なく口にした言葉に、昴流は足を止めた。
「幽霊、ですか」
昴流は手にした和傘の柄をぎゅっと握りしめた。その仕草は微かだが、伯玖は見逃さなかった。
「おう。旧校舎の方で、書生姿の青年が夜な夜な琵琶を弾いてるって話だ。聞いた話じゃあ、その幽霊は結構な美形らしいぜ」
伯玖がにやりと笑う。
その時、昴流の背後——正確には、昴流のすぐ左後ろの空間で、何かが揺れた。伯玖にははっきりと見えた。紫紺の髪を後ろで束ねた、書生服の青年が、困ったような笑みを浮かべてそこに立っていた。
「……なるほど。それは、興味深いですね」
昴流が穏やかに応じる。その声音は少しだけ硬かった。
善治は昴流の背後で、口元に手を当ててくすくすと笑っている。
「いやはや。わしがこんな風に噂になっているとは、光栄の至りだ」
善治はそう言って、くるりと一回転した。その動作の間、彼の身体はほのかに透けて見えた。
伯玖はそれを見て、声に出さずに笑った。そして、昴流に向き直る。
「んで、昴流さんよ。おまえさんは、幽霊って信じる方か?」
昴流は少し考える素振りをしてから、静かに口を開いた。
「ぼくは……不思議なことは、あると思います。見えなくても、そこにいるものはいるんだと、そう思いたいです」
その言葉に、今度は善治が目を見開いた。そして、すぐに優しい笑みを浮かべる。
「嗚呼、なんて話の分かる紳士だ。キミのその感性、ボクは愛してやまないよ」
善治はそう言って、昴流の肩に手を置こうとした。しかし、その手は昴流の身体をすり抜けた。善治は一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐに気を取り直す。
「まあ、そんな訳だ。どうやらこの寮には、確かに幽霊が出るらしいよ」
伯玖が含みのある言い方でそう締めくくった。
三人はそのまま、廊下の先へと歩き出した。雨音だけが、静かに響いていた。
「旧校舎で琵琶の音を聴いたことがある」と打ち明ける
昴流は一呼吸置いてから、ぽつりと打ち明けた。
「実は……旧校舎で、琵琶の音を聴いたことがあるんだ」
伯玖が足を止め、興味深そうに眦を細める。昴流の背後で、善治が驚いたように目を見張った。
「へえ。いつだ?」
伯玖の声には、探るような響きがあった。
「先週の夜遅く。寮の廊下ですれ違った時、確かに聞こえたんだ。遠くから、微かに……とても哀しい旋律だった」
昴流は俯きながら、絞り出すように続ける。
「その音に引き寄せられるように旧校舎の方へ向かおうとしたんだけど……足がすくんでしまって。結局、行けなかった」
善治は静かに昴流を見つめていた。その茜色の瞳に、かすかな憐れみが浮かんでいる。
「キミは……本当に優しいんだね」
善治の声は、風のようにかすかだった。
伯玖は顎に手を当て、しばし思案する素振りを見せた。
「なるほどな。もしその幽霊に会いたいってんなら——おれが一緒に行ってやってもいいぜ?」
「ぜひ、案内してほしい」と頼む
昴流は深く息を吸い込み、意を決したように顔を上げた。
「ぜひ、案内してほしい。伯玖さん」
その言葉に、伯玖は少し驚いたように瞬きをした。そしてすぐに、いつもの飄々とした笑みを浮かべる。
「おやまあ、勇気ある決断だねえ。いいぜ、今夜——いや、今夜はもう遅い。明日の晩ってのはどうだ?」
「ありがとう。でも……」昴流は少し躊躇う。「君に迷惑じゃないかな」
「迷惑だなんて、とんでもない」伯玖が首を振る。「むしろ、おれも気になってたところだ。一人で行くにはちょいと心許ない場所だからな」
昴流の背後で、善治が困ったような、嬉しいような複雑な表情を浮かべている。彼はそっと昴流の背中を——触れられないと分かっていながら——撫でる仕草をした。
「キミは本当に……損な性分だねえ」善治は呟く。「誰かのために、自分から危険に飛び込んでいく。その優しさが、ボクは好きだよ」
昴流にはその声は聞こえない。それでも、なぜか背中に温かさを感じたのか、彼は少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ、明日の夜。ここで待ち合わせしよう」伯玖が言った。「くれぐれも、無理はするなよ」
昴流は静かに頷いた。雨の音だけが、三人の間を静かに流れていった。
翌夜、約束の場所で待つ昴流
翌夜。
ホタルビ寮の通用口。雨は昨夜よりも強くなっていた。軒先から落ちる水滴が、石畳に絶え間なく水紋を描いている。
昴流は約束の時間より十分早く来ていた。手には和傘。心臓は早鐘を打っている。深呼吸をして落ち着こうとするが、胸のざわつきは収まらない。
(本当に、行くのか……)
自分でも、なぜそんな決断をしたのか分からなかった。ただ、あの琵琶の音が——哀しい旋律が——忘れられなかったのだ。もしかしたら、あの音の主に、何か伝えたいことがあるのかもしれない。
彼は手袋を外し、雨滴を手のひらで受け止めた。冷たい感触が、現実を思い出させる。
「待たせたな」
声がして顔を上げると、伯玖が立っていた。いつもと変わらぬ飄々とした様子。ただし、右手には横笛を持っている。
「伯玖さん……」
「よし、行くぞ。……覚悟はできてるか?」
伯玖が真剣な目で問いかける。その瞳に、昴流は小さく頷き返した。
「——はい」
背後で、誰かの気配がした。昴流には見えないが、善治が二人の後ろに立っている。彼は心配そうに、それでいてどこか期待に満ちた表情で、二人を見守っていた。
「もし本当に幽霊に会えたら、何て言おうかな」と微笑む
昴流が微かに笑みを浮かべながら言った。
「もし本当に幽霊に会えたら、何て言おうかな」
その言葉に、伯玖は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに口元を緩ませる。
「そりゃあ、『お邪魔します』とか『初めまして』とかじゃねえか?」
「そうかもしれない。でも……」昴流は雨の落ちる先を見つめながら続ける。「もしその人が、何かを伝えたくてそこにいるのなら、ちゃんと耳を傾けたいと思うんだ」
善治は、昴流のすぐ横に浮かんでいた。その茜色の瞳が、切なげに揺れる。
「キミは……本当に、そういう人なのだね」善治の声は、雨音に溶けて消えた。
「昴流さんは優しすぎるよ」伯玖が茶化すように言う。「まあ、その優しさがとりえってやつか」
「とりえ……かな」昴流は照れ臭そうにうつむいた。「とにかく、行こう」
三人——いや、見える者と見えない者が一人——は、雨の旧校舎へと足を踏み出した。
旧校舎の扉を開ける
湿った金属の取っ手を回す。鍵はかかっていなかった。錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てて、古びた扉が内側へと開く。
中は暗闇だった。廊下の先から、カビと埃と、そして微かに——古い線香の香りが漂ってくる。
「——入るぞ」
伯玖が先に足を踏み入れた。横笛を右手に構えたまま、慎重に辺りを見渡す。
昴流も後に続いた。靴底が軋む床——木の感触が、何十年も前の時間を伝えてくる。彼は手袋のまま、壁に触れた。
(冷たい……)
そして、その時だった。
遠くから、微かに——弦の弾ける音が聞こえた。
昴流の背筋が走る。
「——聞こえたか?」伯玖が低く尋ねる。
「ええ」
「どうやら、本当にいるみたいだな」
善治は、二人の少し後ろに浮かんでいた。彼の表情は複雑だった。怖がっているようで、それでいてどこか懐かしそうでもある。
「……来てしまったのだね」彼は独り言のように呟きながら、その音のした方を見つめた。
音のした方へ、慎重に歩き出す
昴流はゆっくりと、音のした方へ足を向けた。廊下は曲がりくねり、天井は高く、窓から差し込む月明かりが床に青白い模様を描いている。雨の音が遠くなり、代わりに乾いた空気が肌を包む。耳を澄ませると、確かに——微かに琵琶の音が聞こえてくる。それは断続的で、まるで誰かが一音一音を確かめるように弾いているかのようだった。
伯玖が後ろから声をかける。
「気をつけろよ。この辺りは床が抜けてるとこもあるからな」
昴流は頷き、慎重に一歩を踏み出す。軋む床の下で、何かが動くような気配がした。彼は息を呑み、足を止めた。
その時——
琵琶の音が、はっきりと聞こえた。すぐ近くの部屋からだ。
昴流は、その部屋の前に立っていた。扉は半ば開いている。中から、かすかな灯りが漏れていた。
「——ここか」
伯玖が耳元で囁く。
善治は、二人のすぐ背後に立っていた。彼の手が、震えている。
ノックをして、扉を開ける
昴流は一度深く息を吸い込み、古びた扉の前に立った。指先が震える。それでも、彼は拳を作り、三度、ノックをした。
コン、コン、コン。
乾いた音が、静まり返った廊下に響く。中から返事はない。しかし、琵琶の音も止んでいた。
「——入るよ」
昴流はそう呟いて、静かに扉を押し開けた。
蝶番が軋む。部屋の中から、ほこりと線香の香りが流れ出る。そして——
部屋の中央。窓辺に、一人の青年が座っていた。
紫紺の長髪を後ろで束ね、丸眼鏡をかけている。書生服に身を包み、膝の上には古びた琵琶。月明かりに照らされたその横顔は、どこか哀しげで、それでいて優しかった。
「——おや」
青年が口を開く。その声は、思っていたよりずっと朗らかだった。
「お客様とは、珍しい。どうぞ、お入りください」
彼はにこやかに笑い、手で椅子を勧めた。だが、その手はわずかに透けていた。
昴流は、言葉を失っていた。
