
ホタルビ3人の交流。
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雨の音が、障子越しにしとしとと響く。ホタルビ寮の縁側で、昴流は湯呑みを両手で包み込むように持っていた。向かいに座る伯玖が、横笛を膝に置いてだらりと足を投げ出している。
「昴流さん、今日もえらい静かじゃないか」
「そうだね。雨の日は、みんな部屋に籠りがちだから」
昴流は湯呑みの縁を指先でなぞった。そのとき、伯玖の視線がふと、誰もいない畳の一点へと流れる。
「おや、善治さん。今日は随分とご機嫌じゃないか」
昴流は瞬きもせず、そちらへ微笑みを向けた。見えない。声も聞こえない。けれど、伯玖の口ぶりでわかる。善治はきっと、縁側のいちばん日の当たる場所に陣取って、なにか芝居がかったことを言っているのだろう。
「どうしたんだい、善治くん」
昴流が問いかけると、伯玖がくくっと喉を鳴らした。
「『不肖このボクが、雨の一句を詠もうではないか』だとよ。……ったく、当人には聞こえちゃいねえのに、よく付き合うよなあ、昴流さんは」
昴流はそっと眼を伏せた。付き合っている、というわけではない。ただ、友の声を聞く代わりに、友がそこにいる気配を、こんなふうに確かめているだけだった。
「うん。……聞こえた気がしたんだ」
伯玖は首を傾げ、それから何も問わずに湯呑みを掲げた。縁側に、三人ぶんの茶が並んでいる。
縁側に並んだ湯呑みを、ひとつ手に取って空いた場所に置く
昴流は空いた場所に、そっと三つめの湯呑みを置いた。
伯玖がそれを見て、眉をひそめる。
「昴流さん、そりゃ誰のぶんだい?」
「……善治くんの」
「ああ、そうか。善治さんは麦茶派だったな」
伯玖は当たり前のようにうなずき、自分の湯呑みを傾けた。雨音がふと弱まり、濡れた藤の香りが縁側に流れ込む。置かれた湯呑みの水面が、かすかに揺れた。風もないのに、湯気がひとつ、ゆっくりと持ち上がっていく。
「おや」
伯玖が目を細めた。
「どうしたの?」
「いや……なんでもないさ」
伯玖は答えながら、ちらりと湯呑みの向こうを見やった。そこにあるはずの気配を、けれど昴流には見ることも聞くこともできない。ただ、置いた湯呑みの湯気が、まるで誰かがそっと息を吹きかけたみたいに揺れて、それから静かに立ちのぼっていくのを、昴流はじっと眺めていた。
縁側の軒先で、藤の花がひと房、雨に濡れて重たげに垂れている。
湯呑みの湯気の揺れについて、伯玖にそれとなく訊いてみる
「伯玖さん」
昴流は湯呑みを両手で包み直しながら、さりげなく切り出した。
「この湯気、さっきから……風もないのに、揺れてるよね。なにか、あるのかな」
伯玖は横笛を指で転がしていた手を止め、縁側の湯呑みへと目をやった。しばらく、雨音だけが満ちる。
「さあねえ。おれには、ただの湯気に見えるが」
そう言ってから、伯玖はふっと口元を緩めた。
「でもまあ、昴流さんがそう思うなら、そうなんじゃないか。……善治さん、昴流さんにまで気を遣わせるんじゃないよ」
最後のひと言は、確かに誰もいない宙へ向けられていた。昴流は湯呑みの水面に映る自分の顔を見つめ、そこに映らないはずの誰かを、なんとなく思い描く。
「うん。……そうだといいな」
伯玖は答えず、湯呑みをひとつ、空いた場所へと押しやった。
「冷める前に、飲んどきなよ」
湯呑みに手を触れて、サイコメトリーで残った記憶を覗いてみる
昴流は手袋を外し、置いたばかりの湯呑みに指先を触れた。
瞬間、視界の裏側で何かが弾ける。冷たい雨の記憶ではない。畳の匂いと、湯呑みを両手で包む小さな手。麦茶の湯気の向こうで、丸眼鏡の奥の茜色の瞳が、こちらを見て笑っている。――――ボクの茶が、ある。まだ、ある。そう呟く声まで、指先に流れ込んできた。
「っ……」
昴流は手を引き、耳まで熱くなった自分の顔を隠すように俯いた。これは、ぼくが淹れた茶を、あの人が飲んでくれたときの残り香。いや、違う。これは――もっと前の、誰かがここにいた証。
「おいおい、昴流さん。そんな青い顔してどうしたんだい」
伯玖が身を乗り出す。昴流は湯呑みから手を離し、震える指を袖の下へ隠した。
「ううん、なんでもない。……ちょっと、温かくて」
嘘をついた途端、袖の中で手袋がするりと落ちた。拾おうとした伯玖の手が、ふと湯呑みの向こうの空気に触れて止まる。
「……ああ、なるほどなあ」伯玖は誰にともなく呟いた。「おまえさん、そこにいたのか」
雨が、またひとつ強さを増した。藤の房が揺れ、縁側の湯呑みが、ことりと小さく鳴る。昴流は落ちた手袋を拾い上げながら、まだ見えない何かに、そっと目線を合わせていた。
見えない何かに向かって、もう一度「善治くん」と声をかける
「善治くん」
昴流は、湯呑みの向こうの何もない空間へ、もう一度そう呼びかけた。雨音の隙間を縫うように、声は縁側に落ちていく。返事はない。けれど、置いた湯呑みの水面が、またかすかに揺れた。
伯玖は横笛を膝に戻し、三白眼を細めてその様子を見ていた。
「昴流さん、あんた……本当に、律儀だねえ」
「そうかな」
「そうだよ。見えもしねえ相手に、そんな何度も声かけるもんじゃない」
伯玖はそう言いながらも、どこか笑っている。雨に濡れた藤の香りが、ふたりの間をゆっくりと渡っていく。昴流は湯呑みをひとつ持ち上げ、まだ湯気の立つそれを、空いた場所へと押しやった。
「善治くん。……お茶、冷めちゃうよ」
瞬間、縁側の空気が、ほんのわずかに、けれど確かに、あたたかくゆらめいた気がした。伯玖が「あらら」と呟く。
「おまえさん、返事くらいしてやりなよ」
その言葉の先には、やはり誰もいない。それでも昴流は、そこにいる何かに向かって、もう一度だけ、小さく笑いかけたのだった。
湯呑みに指でふれ、こぼれた記憶のかけらをもう一度だけそっと覗いてみる
昴流はもう一度、湯呑みに指先をそっと添えた。今度はさっきより強く、記憶の膜が指を伝ってめくれる。――――雨の縁側。並んだ湯呑みの向こうで、書生服の青年が、麦茶を両手で包んでいた。長く束ねた紫紺の髪、青緑のメッシュが、障子の光を受けて揺れる。
「キミの淹れてくれた茶は、いつも肝腎春日の要石だねえ」
そう言って、青年は笑った。茜色の瞳。丸眼鏡の奥で、それはたしかに、昴流を見ていた。指先が痺れる。体温のない、ひやりとした温もりが、湯呑み越しに伝わってくる。これは誰の記憶なんだろう。ぼくのじゃない。でも、こんなに近くて、こんなに眩しい。
「……っ」
昴流は指を弾かれるように離した。目の奥がじんと熱い。伯玖が横から覗き込み、湯呑みと昴流の顔を交互に見比べる。
「昴流さん、また無茶したろう」
「ちがう、これは……ぼくのじゃ、ないんだ」
嘘ではなかった。けれど、そう言い切った瞬間、縁側の空気が急に冷たくなった。湯呑みの湯気が、すっと一直線に立ちのぼる。伯玖は何も言わず、ただ空いた場所に、自分の湯呑みをそっと寄せた。
「ま、いっか。雨の日は、こういうのも悪くねえ」
湯呑みを青年のいた場所へ静かに差し出してみる
昴流は湯呑みを両手で持ち、青年がいたはずの場所へ、そっと差し出した。
「善治くん。……どうぞ」
畳の上に並ぶ三つの湯呑みのうち、いちばん新しい湯気が、またゆらりと揺れる。雨音がふと途切れ、濡れた藤の重たげな香りだけが残った。伯玖は横笛を膝に置き、三白眼を細めてその様子を眺めている。
「昴流さん、あんた……」
伯玖は途中まで言いかけて、けれど最後まで言わなかった。代わりに、湯呑みのひとつを持ち上げ、置いたばかりのその隣へ、ことりと寄せる。
「おまえさんも、遠慮せず飲みなよ。昴流さんが淹れたんだ、冷めたら勿体ねえ」
その言葉の先に、やはり返事はない。けれど差し出した湯呑みの水面だけが、微かに弧を描いて、まるで誰かがそっと口をつけたように波紋を広げた。
「あらら」
伯玖が苦笑する。昴流は差し出した手をそのままに、縁側の空気へ小さく微笑みかけた。雨の向こうで、藤の花がまたひと房、静かに揺れている。
「善治くん、お茶、おいしい?」と、返事のない相手に問いかける
「善治くん、お茶、おいしい?」
昴流は差し出した湯呑みの向こうへ、静かにそう問いかけた。返事はない。雨音が、しとしとと縁側を撫でていくだけだ。けれど置かれた湯呑みの水面に、またひとつ、小さな波紋が広がった気がした。
「……そっか。よかった」
昴流はひとりごちて、指先で自分の湯呑みを包み直した。伯玖は膝の横笛を軽く叩きながら、そのやり取りを眺めていた。
「昴流さん、あんたそれ、毎回やってるだろ」
「うん。……癖、かな」
「癖ねえ」
伯玖は喉の奥で笑うと、三白眼を湯呑みの向こうの空気へと流した。
「善治さんよ。昴流さんがせっかく訊いてるんだ、いい加減なんか言ってやりなよ」
呟きは、確かに誰もいない宙へ落ちていく。それでも昴流は、湯呑みの湯気がふわりと立ちのぼるのを、目を細めて眺めていた。雨の匂いと、濡れた藤の香り。見えない誰かの笑い声が、湯呑みのそばで、鳴ったような気がした。
「今度は善治くんの好きな麦茶を淹れてみるね」と、雨の縁側で約束をする
「今度は、善治くんの好きな麦茶を淹れてみるね」
昴流は湯呑みを手のひらで包みながら、雨の縁側にそっと約束を落とした。返事はない。それでも構わない、とでもいうように、彼は湯呑みの湯気を見つめている。伯玖が横笛を指でつまんだまま、ちらりと昴流の横顔をうかがった。
「麦茶ねえ。……あんた、よく覚えてたな、そんなこと」
「うん。なんとなく」
「なんとなく、ね」
伯玖はそれ以上追及しなかった。ただ、縁側に並んだ湯呑みのうち空いたひとつへ、自分の分を寄せてやる。雨脚がまた少し強くなり、濡れた藤の房が、ゆっくりと揺れた。差し出された湯呑みの水面が、まるで応えるみたいに、ことりと障子の桟を鳴らす。
「善治さん。……次は麦茶だってさ」
伯玖の呟きを、昴流は湯呑みの底に沈めながら聞いていた。今度こそ、冷めないうちに、と。晴れない雨の空の下で、まだ誰もいない約束が、ひとつ増えた。
