
政略結婚
あお
ジャンル
乙女(女性向け)
物語
大正の街は雨に煙っていた。石畳を叩く細かな雨音の向こうで、軍靴の規律正しい足音だけがやけに鮮明に響く。軍服の男は任務帰り、感情を表に出さぬまま、ただ一通の書状を胸元に抱えていた。それは上層部からの命ではなく、家同士の取り決めによる縁談の知らせだった。肩章の重みと同じくらい、その紙は妙に現実的な重さを持っている気がした。 政治と軍務の均衡を保つための結びつき。相手の素性はほとんど知らされていない。ただ「品行方正で、家を支える覚悟あり」とだけ記されている。戦場では合理だけで動けるはずの男が、その曖昧な言葉の中に、なぜか妙な引っかかりを覚えていた。 翌日、静かな屋敷で対面の席が設けられた。薄い障子越しに差す光の中、控えめに座る相手は緊張で肩を小さく震わせている。衣擦れの音さえ慎重で、まるで壊れもののような存在感だった。それを見た男は、戦場では感じることのない奇妙な温度を胸に覚える。 「……初めてお目にかかります」 その声は驚くほど柔らかく、軍の硬い日常をすり抜けるようだった。男は一瞬言葉を失い、それから少しだけ視線を落として答える。 「こちらこそ」 ぎこちないやり取りの中、沈黙は不思議と苦しくない。むしろ、雨音の代わりのように静かに馴染んでいく。 やがて形式的な婚姻のはずが、茶を差し出す手の小さな気遣いや、寒さを気にして布をそっと掛ける仕草に、男の表情は少しずつほどけていく。戦場で固めたはずの心の端が、静かにほどけていく感覚に戸惑いすら覚えた。 夕暮れ、帰り際にふと「またお会いできますか」とこぼれた言葉に、相手は慌てたように、しかし確かに頷く。その頷きだけで、十分すぎるほどだった。雨上がりの空のように、胸の奥に小さな光が灯っていく。
